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らっしゃもない・ドッジ・演劇と詩
 毎月、月末になると朝刊にチラシに混じって入ってくるカレンダーを愛用しています。サイズはA4。日付が横にではなく、縦に並んでいます。書き込める部分が多いのです。
 それをPCの横にすえたコルクボードに画鋲で貼るのが、私の毎月の儀式なのですが。画鋲で貼っているということは、書き消しするたびに画鋲をいちいち抜き刺ししなければならないということで。これはちょっと不便です。
 思いついて、ゼムクリップを折り曲げ、針金でフックを手製しました。ボードの画鋲に、紙に通したフックをひっかける。ちょん。……楽だ。見た目は悪いですけど。

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 ところで「見た目が悪いこと(散らかっていること・だらしのないこと)」を岐阜では「らっしゃもない」と言います。今までこの言葉が通じなかったことは一度もありません。でもこうして文字にしてみると、どこの言葉なんだろう、本当に通じてたんだろうか、と思えてきます。「ラッシャモナイ」。

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 とつぜん思い出したのですが。
 私、小学生の時ドッジボールで「最後の一人」になったことがあります。コート内に残った最後の一人。自軍最後の希望。一路の望み。まあいっしゅのヒーローですね。
 逃げるのが天才的にうまかったのですよ。「避けるのが」ではなく「逃げるのが」。誰が誰を狙っているか、どの射線がどう交差しており、どこに立てばそれをかいくぐれるか。誰が盾として使えるか。誰がオトリになってくれるか。誰がボールを取り攻撃役になってくれるか。さて自分はどこへ逃げるか。ケッケッケッ。
 ……という具合でした。「最後の一人」になった時も、その天才的逃げ方で最後まで生き残ったわけです。
 しかしそこには致命的な欠点がありました。内野は私ひとり、攻撃役が誰もいない。相手内野が私を狙う。私が逃げる。ボールを拾った相手外野が私を狙う。私が逃げる。ボールを拾った相手内野が私を狙う。私が逃げる……。試合が終わらない。
 クラス中から「分かったから早く当たって死ね!」「休み時間は少ねえんだぞ!」という念波が飛んでましたね。いやあ、英雄と罪人は紙一重ですね。

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 当サイトの活動予定には書いてませんでしたが、さいきん私は演劇を三つ観ました。先日『五年目の手紙』という朗読劇に行ったとき、いろいろ演劇のチラシをもらいまして。興味を持ったので、面白そうなものを選んで足を運びました。
 9月25日(土)は『キル』を見ました。学生さんの劇団が客席数300の小劇場を使う、ということは挑戦的なことなのだ、といったことがチラシには書かれていました。お客さんは二十代〜三十代の人が多く、客席は五分の二ぐらいが埋まっていました。有名な脚本だそうで、比喩や言葉遊びが満載の劇でした。「青い狼が青き狼を着る! 青き狼が青い狼を切る!」「そうか! 生きるとは着ることだ!」とか。詩の人ならとってもニヤニヤできるだろうなあ、と思いました。映画を見るようなつもりで来た人には難しかったかもしれません。演技・演出、よかったです。役者さんと役がすごく合ってました。衣装もかっこよかった。
 10月02日(土)は『ニート!ニート!ニート!』という劇を見ました。こちらはプロの俳優さんもいらっしゃる劇団でした。愛知県美術館の中の小劇場(と言ってもやはり客席数は200以上ある劇場)で、じゃばら式の壁や映像プロジェクターなど、凝った装置が使われていました。お客さんは十代からご年配の方まで幅広かったです。客席は八割がた埋まっていました。劇は本格的でした。役者さんさすがにうまかったです。面白かったんですが、笑いのツボがずれているような感じもしたこと、謎がオチ切らないような含みのある物語だったこと……私は詩の人だから面白みを感じるけど、普通のお客さんは着いていけてるのかな。そんなことも考えました。
 10月10日(日)は『仮想結晶体は遠く』という劇を見ました。初めて上社駅という駅で降りました。駅ビルがそのまま文化会館になっていて、その中の小劇場(と言ってもやはり客席数は300〜400はある立派な劇場)が舞台でした。入口の前の棚に文化事業のチラシが色とりどり、数十種類も並んでいました。いくつか手にとって見てみるると、名古屋市内にこれほど多くの劇場と団体があったのかと驚きました。名古屋へ出かけるようになって結構たちますが、全く知りませんでした。劇のお客さんは二十代から四十代が中心で、ちらほらとただならぬ気配のご年配の方(なにか表現をされてるんだろうな)も居らっしゃいました。話は現実が異次元的に解釈される多重構造的なものでした。檻の枠を手に持って「あちら側が不自由なら、こちら側が自由か!」と言い、檻の枠をステージの端に寄せることで「自由が、永遠が広がった!」と脱獄に成功するとか。私は楽しめましたが……映画や小説のような物語を想定してきた人は、着いてこれなかったんじゃないかな。そうでもないんだろうか。

 演劇を三つ観て思ったことは。第一に「劇ってこんなにたくさん人が集められるんだ」ということでした。詩のイベントではあの十分の一すら集まらない。
 第二には、チラシを中心としたネットワークの確かさ。どこにどんな劇場があって何をいつ幾らで上演するのか。誰が出るのか。どんな感じなのか。告知が行き届いている。「劇に行けばチラシを貰って当たり前」というPRのシステムが出来上がっている。これも詩には無いことです。
 第三点が、お客さんの質。結構な数のお客さんがこの難解な物語をじっと観ている。このお客さん達になら、詩の朗読もあっさり通用するんじゃないかな。オープンマイクって、音楽活動やアート活動をしてる人と関わることが多かったけど。詩のメジャー化って「会社員に詩を売る」みたいなことを考えがちだけど。……まずはこのお客さんたちを振り向かせるべきなんじゃないかな。

 10月10日は、覚王山で行われていた『覚王山ミュージアム』にも行きました。レモンさんのお知り合いの「よしねこ」さんにお会いました。覚王山アパートや露天を一巡ひやかしたあと、道の端で携帯灰皿を持ち煙草を吸いながら(焼き鳥屋の売り声を聞きながら)バンドや舞踏のステージを見ていました。足を停める人達の数は、これもまた詩のイベントより段違いに多い。
 夜7時ごろになり、夕飯でも頂こうと山山堂さんに行ってみたらお休みでした。コンビニで肉まんを買って食べ、鶴舞のKDjaponに向かったらそこもお休みでした。知り合いがイベントをすると聞いてたんですが、ここじゃなかったみたい。このまま岐阜に帰るのもなあ、と思ったのでKDjaponのすぐそばにあるデイトリップというライブハウスに入ってみました。どこかの大学の軽音楽部の定期演奏会でした。煙草を吸いながら端で見てました。前にこのステージに立ったことあったな。やっぱり演りやすい・聞きやすい所だなあ。と、そんなことを思いながら。ぼんやり。

 べつに東海の詩のシーンを背負うつもりなんざ無いですけど。いや、全くない訳でもないですけど。……イベントとか企画する以前に、もっとすべき仕事があるんじゃないか? もっと取り込めるはずの人って居るんじゃないか? そんなことを感じさせられました。

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 ところで今「死の舞踏」と日本語変換しようとしたら「しのぶ党」と出ました。……っていうか私は何で「死の舞踏」なんて言葉を入力・変換してしまったんだろう。何に使うつもりだったんだろう「死の舞踏」。
「出た! 若原君の『死の舞踏』だ!」「あ、あれが」「足が八本に見えるわ!」「タコ?」とか書きたかったんじゃないですかね。神のみぞ知ります。
 とこのように「『死の舞踏』をいじくり『しのぶ党』は放置する」という上級駄文魔法を発動してみました。なかなか出来る技ではないのだよベルモンド。いつも御見事ですだんな様。
2004-10-12
(c) Mitsuhiko WAKAHARA