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作為の地獄から
 作品を作るという事と、揚げ足を取るという事はどう違うのだろう。ある者が何か発想をし意見する。都合よい部分だけを取り、順序を組み換え、作者自身は陰に隠す。算段を練り上げ、術を用い、受け手の時間や金銭を奪ってなおかつ洗脳する。あこぎだ。
 何かを表現しようという人は、どうしてあんなに厭らしい顔をしているのだろう。自分の発見にうっとりとして、それを世情に広報せねば気が済まない人々。その発見が重大で公明正大で無抵抗であればあるほど喜ぶ人々。できるだけ少ない労力で、最も自分を高く見せようとする人々。ペテン師ども。
 
 何もなかった。今でもたいして変わらない。
 どうして詩を書き始めたのか。詩が、最小の労力で最大の自己主張を行える表現手段だったからだろう。詩の入口は広く、その有効期間は長い。不遇な位置にある者が、人生の一発逆転を狙って飛びつくには格好の表現だ。詩には誰も文句を言わないし、何が正解ということもない。社会から適度に無視されている、誰にも攻撃されない安全地帯。そこから無抵抗の相手を華々しく狙撃してみせる芸。表現。自己主張。創作。吐き気がする。卑怯極まりない。殺してくれ。
 
 テレビを点ける。コメンテーターが何か話している。チャンネルを変える。バラエティ番組にテロップがついている。色とりどりの文字がいろんな字体で繰り出される。あの一挙手一投足に創意工夫がある。テレビを消す。漫画を読む。そこに現実はない。作者の都合で登場人物が死ぬ、かと思いきや、都市が壊滅するほどの災害が起きても主人公は生き残る。ありえない。時計を見る。一日が24時間なのは大昔の大帝がそう決めた為だそうだ。馬鹿が数千年後まで迷惑かけてやがる。煙草を吸う。パッケージデザインが最近変わった。低年齢層に煙草を売るための戦略だとどこかで読んだ。うんざりだ。机の上の千円札。肖像画がこっちを向いている。円。単位。数値。リモコン。ボタン配置。三色ボールペン。十徳ナイフ。千手観音。哲学。医術。おしゃれ。犯罪。吟遊。新聞。安全保障。世界平和。貧富。友情。不倫。未承諾広告。法律。肩書き。努力。発見。発明。
 もうたくさんだ。やめてくれ。私を狙わないでくれ。私から評価を得ようとしないでくれ。私は誰も評価する気になれない。気持ちが悪いんだ。こっちを見るな。吐き気がする。眠りたい。眠くない。自分の両手が気持ち悪い。壁紙が煩い。雨が降っている筈なのに何も聞こえない。
 
 夢という言葉が嫌いだ。寝ている間に見る夢はあんなに良いものなのに。人のかたる夢はどうしてああ厭らしいんだろう。自己暗示や合理化や言い訳に満ちていて醜い。個人の勝手な思い込みに歪められた世界。その歪みがこちら側まで伝わってくる。賞味しろとか笑えとか投票に行けとか立ち上がれとか買えとか信じろとか。うるせえんだよ馬鹿。
 夢という言葉が嫌いだ。それは人間的、個人的な都合に満ちている。志という言葉が好きだ。意味する所は同じだが、志には個人的な都合を一切拒む美しさ、強さを感じる。夢に含まれる醜さ、弱さ、甘さは感じない。
 
 私が定型詩に流れたのは、個人の持つ厭らしさを消すためだった。自由詩の場合、句読点ひとつ、改行ひとつにすら作者のエゴが現れる。それが私には我慢ならなかった。誰もが自分の芸に酔って得意気に奇手を競っているように見えた。美しい行為には見えなかった。
 読むに耐えない臭い台詞でも、歌詞としては身を任せて聞ける場合がある。定型には個人の心理的障壁を軽減する力がある。人の隙間にすっと滑り込むことができる。私は定型で創作することによって、自分の作から自分の臭みを消そうとしていた。
 
 個人的な激情を元にしていない詩は全くの駄作か神様の創作だ、ということを述べた詩人が居たが、その通りだと思う。個人的な感情を元に、自分の表現に責任を持ち創作を行う。そうした人間のほうがまともだ。エゴでまみれた猥雑な人間こそ立派な市民だ。
 それでも私は個人の矮小さを忌避する。個々人の抱えているドラマなどに興味はない。そこに生まれる妙味やそれを生むシステムにだけ関心がある。個人的な創作よりも神様の創作に接近したいと思っている。個人的熱情や信条には関心が薄い。本質、標準、一般性、あるいは自然や道理といったものを求めている。
 かつて、神はサイコロを振らない、と言った科学者が居た。その考えに私は頷く。私は世界の道理と対面したい。自然や科学、摂理や効率を相手にしたい。エゴや不自然や思い込みには振り回されたくない。奇抜にはなりたくない。普通でありたい。普遍でありたい。
 
 普通になりたかった。ずっと。
 他人に乱されたくなかった。自分の人生を。
 あんな大人にはなるまいと幾度も思った。無力だった。周囲の人間のエゴを私は憎んだ。同時に、自分の弱さ、運命や世界のどうしようも無さを思い知らされていた。
 個人的な言葉は私に役立たなかった。私は言葉の持つ意味や、その裏の心理、その言葉が吐かれる状況といったものを察知する勘に優れていた。表面的に優しい言葉も、関係や状況から自己保身や関係維持のため発せられているに過ぎない。欺瞞。心などというものを私は信じない。あるのはシステム、状況だけだ。命も夢も地上には存在しない。奇麗事を並べても世界は変わらない。
 何もなかった。今でもたいして変わらない。
 
 世界の不毛や無常を肯定し、許し、悟れるような作品を書きたいといつも思っている。一時的で押し付けがましい、欺瞞に満ちた夢や希望を売るつもりなどない。もっと誠実で嘘のないものが好きだ。
 美しいものには心がない。意味もない。いかなる解釈も拒まず、どんな解釈も認めない。なにものでもなく、なにものでもありうる。人も生も、本当はそんな存在だと思う。ありていに言えば自由だ。それは空虚と同義だ。
 
 創作では、いつも臭みに注意している。作為、厭らしさと言い換えてもいい。受け手が臭みを感じはしないか。生理的に吐き気がしないか。拒絶反応に苦しみはしないか。個人的過ぎはしないか。個人や時代を幾らかでも越えられているか。私個人から離れたか。広がりがあるか。自然か。透明か。
 神性や永遠性を求めることが悪い事だとは私は思っていない。私は自分はこのままでいい思っている。私には情熱がない。心もない。夢もない。自分自身すら信じていない。だからこそ書けるものもある。
 
 私は詩も信じていない。それでも詩作を続けている。自分の書きたいものを書くには詩という形が最適だった。自由で可能性に満ち、工夫を凝らしつつも誠実さを失わない表現手段。詩はなんて多くのものをかくまってくれるんだろう。
(c) Mitsuhiko WAKAHARA