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平原
私は平原を走っていた。
雑草が足首にちりちりとした触覚を与えていた。
私に名前は無い。
どこで生まれたのかも何者なのかも知らない。
そんなことは問題ではなかった。
 
私の目の前には平原が広がっていた。
おそらくこの平原にも名前はないのだろう。
私は無警戒に一歩踏み出した。
ざりりと土がよじれ、
地面が足にリアルなフィードバックを戻してきた。
私はもう一歩踏み出してみたくなった。
風がさっと肌を梳き、
視界のパノラマがぐわりと後方へスライドした。
得体の知れない興奮が私に込み上げてきた。
 
気付くと私は平原をやみくもに走り回っていた。
息が切れる、苦しい、と何度も感じた。
だが止まりたくなかった。
捜すのだ、何かを捜すのだ、と思った。
その時になればそれが何かは分かる。
それまでは絶対に辞めてはならない。
走るのだ。走るのだ。私は駆けた。
 
『おおーい。それ以上行くなよー』
突然背後から声がした。
 
私はびくりとして足を止めた。
恐怖を感じ全身がこわばった。
おそろしくて声の方を振り向けなかった。
 
『そろそろ帰るよー』
声を発しながら、影は私に近寄ってきた。
私は逃げなければ、逃げなければと思った。
だがいくら念じても、
全身の間接は石化したように動かなかった。
 
『どうした、なにか居るのか』
影は私のそばに立ち、私の顔の向く先を眺めた。
影からは毛布や干草に似た、むかむかする匂いがした。
 
『なにもないよ。帰ろう』
影が右手を私の首に伸ばした。
どうして今まで気づかなかったのだろう、
私の首には革紐が巻かれてあった。
革紐からは影と同じむかむかする匂いがした。
私は逃げなければと思った。
影の左手にじゃらりと垂れ下がるものが見えた。
 
『疲れたろ。帰ったら水のむか』
影は無造作に左手のものを私の首に繋いだ。
かちゃっと高音がして、同時に私の体の緊張が解けた。
影の左手からは懐かしくて美味そうな匂いがした。
私の咽喉に微量の唾液が流れた。
 
そうだ、この手はいつも私に食料を運んでくる手だ。
私は自分の名前を思い出した。
 
そして平原のことは二度と思い出さなかった。
(c) Mitsuhiko WAKAHARA