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流れる星のサーカス
 魔法使いが空に登ると、空は名前を要求した。
「名前は?」
「エルピドレ」
「いい名だ、ようこそエルピドレ。エルピドレにようこそ。ところで」と空は言った。「チケットは持っているのかね」
「何のチケットですか」
「エルピドレのチケットだ」
「ありません」
「迷子かね」
「いいえ」
「迷子はみんなそう言うものだ。おいで、可愛いの」
 空に手をつかまれたので、魔法使いは怖くなった。空の手をふり払い、一目散に、ギザギザに駆けて逃げた。どれくらい走ったかわからない。雲の隙間にすべりこみ、追っ手がないのを確認してからやっと呼吸を整えた。背後で轟音が轟いた。
「そこに入っちゃいけない。猛獣の檻だ」空の声がした。「猛獣の檻の部屋だ。猛獣の檻の部屋のテントだ。猛獣の檻の部屋のテントの区画だ。猛獣の檻の部屋のテントの区画の……」
 それは耳の奥に響く声だった。ひどい頭痛がする。頭が握り潰されるようだ。魔法使いはよたよたと雲から出て、そのまま空を落下した。落下し続けた。上空10kmを落下し、上空5kmを落下し、上空2kmを落下し、上空1kmを落下し。上空1mを落下し、上空50cmを落下し、上空20cmを落下し。上空10mmを落下し、上空5mmを落下し。上空0.01mを落下し続けた。
 魔法使いが意識を取り戻したとき、空はカラカラと笑っていた。
「可愛いの。私でなければお前は死んでいたよ」
「お前なんか嫌いだ」
「なんの。エルピドレでなければエルピドレは死んでいた」
「エルピドレって何?」
「名前さ」
「何の?」
「名前の名前さ」
「何の名前の?」
「エルピドレのだよ」
「エルピドレって何?」
「そら、始まったよ」
 空がゴウと赤くなった。かと思うと青くなり、紫になり、黒くなり、闇に包まれた。パチンと指の鳴る音がして、スポットライトがひとつ点いた。だがスポットにはまだら模様しか写されていない。誰が登場し挨拶をするわけでもない。
「何が始まるの?」
「エルピドレだよ」
「それは何?」
「過去には未来の伝説があり、未来には過去の伝説がある」
「意味がわからない」
「伝説に意味などない。ほら」
 空の声がひゅーんと遠のいた。魔法使いは声の去った方を眺めた。今まで気付かなかったが、闇には細かな、白いカビが生えていた。魔法使いは辺りを見回した。この方向だけではない、すべての方角にカビが見受けられた。
「ねえ! これからどうなるの!」
 魔法使いは空に叫んだ。だが空は答えない。
「空のかわりに答えよう」とカビのひとつが言った。「エルピドレ探しが始まったのだ、お前に」
「どうして!」
「エルピドレがエルピドレでいるためにはエルピドレを見つけなければならない」
「エルピドレって何だ!」
「見つけてみなければわからない。あとは自分で考えることだ、小僧」
 突如、カビがわっと増殖し、闇を覆った。あふれたカビに侵食され、圧迫され、魔法使いもろとも闇は圧壊した。続いて空が、そして海が、大地が、色が、音が、すべてが次々と砕け散っていった。世界に、騒々しい霧がたちこめていく。
(c) Mitsuhiko WAKAHARA