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ニヒル&エネルギッシュ
 ちょっと調べ物をしていて、偶然こんなサイトに出くわしました。
プロローグ「詩句」(テキストオンリーのページですが、文字量が多いので1ページで89kbもあります。貧弱な環境の方はご注意)
『TAO(道)』という哲学思想だそうです。どこかで聞いたことがあるような。老子でしたかね。ちがったかな。違ったかも。

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 全部読んだ訳ではないですが。簡単に言うと「無私」の哲学みたいです。幸福や安息を得るには、全ての希望欲望感情生命なにもかも捨て去れ。という。「悟り」なんて程度じゃなく、もっときつい事が書かれてます。いきなり冒頭に「以下の言葉からいかなる価値観もあなたに産まれてはならない」と書かれてます。うーむ、そこまで無を求めますか。なんだか矛盾してて楽しいですけど。

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 言わんとしている事自体は、何となくわかる気がします。私は自分がニヒリストだという自覚があるので。虚無思想の持つ包容力には惹かれるところがあります。道理や正義は人や時代を選ぶけど、虚無は人どころか虫も動物も草も石も差別しませんからね(「個体差は光の元で現れる。闇にはただ温もりがあるだけ」ってこれは誰の言葉だったかな)。
 しかし「ニヒルになるな」と言う人もいます。そんな時代じゃないと。現実的になって活動すべきだと。……ああ、詩の話ですよ。「詩人よニヒルになるな」という意見があるんです。それはその通りだと思う。ニヒルにならない、エネルギッシュな人のほうが正しいし、立派な生き方だと思います。なにか大きな仕事をするだろうと思います。
 でも詩というこの「妙味・曖昧さ・含み」を扱う表現には……ニヒルな、虚無的な、何物も差別しない、誰とも争わない、無手勝流な姿勢が似合っている気がします。だからニヒルであることは別に悪くないんじゃないか、むしろ当然のスタンスなんじゃないか。そんな風に思ったりします。
 もちろんニヒルに染まり切って「無私こそ幸福」とか悟って自殺したりは嫌ですよ、私は。まだまだ欲望はあるし。また、無手勝流を装ってのらりくらりと逃げてばかりもいられない。……きっと、ニヒルとエネルギッシュの間を漂いながら、なんとか世渡りしていくんでしょう。そのバランスが大事なように思います。ニヒルさを完全に捨てるのでもなく、まるきりニヒルに飲まれるのでもなく。

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 それにしても第2回がこんな話題というのはどうなんだろう。ま、いっか。自然体自然体。(なりゆきまかせとも言いますが。)

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 さて、今日の一枚です。
 電柱です。登る人がいるとは思えないけど……いないとも限らない。大変です電力会社も。ついでに「かじらないで下さい」とか書いとかなくて大丈夫ですかね。……あ。電柱かじっても、かじった方の歯が欠けるだけか。ちくしょう。
2004-07-13
(c) Mitsuhiko WAKAHARA