「乙女に恋をしたこともある。旅人に感謝されたこともある。だがそんなことはもう望みはするまい。私は吸血鬼なのだから。人間とは相容れない存在なのだから」
伯爵は、古城の寝室でひとり呟いた。
伯爵はもう何年も人間に会っていなかった。最後に血を飲んだのはいつだったか、思い出せない。だがこれでいいんだ、と伯爵は思った。人間との関わりを絶てば、もう自分の正体がばれることを恐れる必要もない。のどにかぶりつきたい衝動を必死で抑える必要もない。これでいいんだ、この方が楽だ、と伯爵は思っていた。
*
ある日のことだった。ドンドンドン、と城の扉が叩き打たれた。
「すいません。どなたかいらっしゃいませんか」
人間の声だ。伯爵はハッと飛び起きた。
しかし、伯爵は迷った。いま会ってしまっていいのだろうか。声の主と会うことがお互いの為になるのだろうか。吸血鬼は訪問者に何ができるだろうか。人間は孤独な老人に何をしてくれるだろうか。
伯爵は答を出すことができず、じっと待った。そのうちに声は止んだ。諦めたのだろう。そして足音がして、それはだんだんと遠くなり、消えた。あとには静寂が戻った。これでよかったんだ、と伯爵は思った。だが心は晴れなかった。
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翌日、伯爵はいつも通りの浅い眠りから目覚めた。カーテンの隙間からは、早朝の弱い光が漏れ込んでいた。光は室内のほこりを浮かび上がらせ、オーロラのようにきらきらと輝いている。伯爵にはその光が、とても暖かく優しそうに見えた。伯爵はふらふらと起き上がると、きまぐれにカーテンに手をかけ、それを引いた。古びたカーテンはざざざざっと音をたてて裂けた。窓の外には早朝の青暗い風景が広がっていた。
「自分は特別な存在なのだと、この世界を支配した気でいた頃もあったな」
伯爵はぼんやりとそんなことを思った。思い出せる名前のいくつかを声に出して挙げてみた。
「だがみんな死んでしまった」
伯爵は、いよいよ自分はひとりぼっちだと感じた。
窓の外、東の空が白んできた。もう5分もしないうちに朝日が昇ってくる。怖い、と伯爵は思った。だがそれでも、窓辺から去る気にはなれなかった。伯爵は祈るように目を閉じた。
窓辺に白い灰が積もってゆくのを、西の空の月だけが見守っていた。