あるところに高速次郎が生まれた。高速次郎は足が速い。三歳にして自転車を追いこす。十歳で列車を、一五歳で飛行機を追いこす。
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もう次郎についてゆける者は誰もいない。それでも次郎はスピードを上げてゆく。
風すら次郎についてゆけない。次郎の衣服は風圧に裂かれ、ちりぢりになった。風音はゴウゴウ、ビュウビュウを通り越し、完全に無音に達した。次郎にはもう誰の声も届かない。
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睡魔も空腹も忘れ、次郎はひたすら加速する。太陽さえも次郎についてゆけない。地面との摩擦で、次郎の足はどんどんすり減ってゆく。髪も爪も、大気との摩擦で燃えつきる。
痛みすら感じる間もなく次郎の体は消滅し、次郎は一条の光線になった。だがその光はすぐ空中に分散し消えた。
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幼き日の次郎の思い出だけが人々の胸に残された。
──あるところに高速次郎が生まれた
──高速次郎は足が速かった
──三歳にして自転車を追いこした
──十歳で列車を、一五歳で飛行機を追いこした
その記憶も時間とともに薄れ、忘れられた。もう誰も次郎を捕らえることはできない。次郎の粒子はいまも世界を飛び回っている。いまも加速を続けている。